大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 平成4年(オ)1694号 判決

上告人

甲野靖子

右法定代理人後見人

三輪悦子

右訴訟代理人弁護士

千葉憲雄

金綱正巳

鶴見祐策

被上告人

片柳良一

右訴訟代理人弁護士

石川隆

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人千葉憲雄、同金綱正巳、同鶴見祐策の上告理由について

一  原審の確定した事実及び記録上明らかな本件訴訟の経緯は、次のとおりである。

1  上告人は、甲野國一とまち夫婦の三女として昭和八年に出生したが、生まれつき聴覚等の障害があり、成長期に適切な教育を受けられなかったため、精神の発達に遅滞があり、読み書きもほとんどできず、六歳程度の知能年齢にある。

2  上告人の父國一は昭和四〇年三月二日に死亡し、その相続人は妻まち、長女禮子、二女悦子、三女上告人及び長男佑であったが、上告人を除く相続人らは、國一の遺志に従い、上告人の将来の生活の資に充てるため、遺産に属していた東京都品川区大崎四丁目に存する木造二階建店舗(以下「旧建物」という。)の所有権及びその敷地の借地権を上告人が取得するとの遺産分割協議が成立したこととして上告人に対し旧建物の所有権移転登記手続をした。そして、まち、禮子、悦子及び佑は、上告人が右1のような状態にあったので、以後、上告人と同居していたまちと禮子が上告人の身の回りの世話をし、主として禮子が旧建物を管理することとした。旧建物について、昭和四三年五月の上告人を賃貸人とする被上告人との間の賃貸借契約の締結、その後の賃料の改定、契約の更新等の交渉には禮子が当たったが、そのことについてだれからも苦情が出ることはなかった。

3  昭和五五年、地産トーカン株式会社において旧建物の敷地及びそれに隣接する土地上に等価交換方式によりビルを建築する計画が立てられ、右計画を実施するためには旧建物を取り壊すことが必要になった。このビル建築をめぐる被上告人との間の交渉には主として禮子が当たり、同年九月一九日、被上告人が旧建物からいったん立ち退き、ビルの完成後に上告人が取得する区分所有建物を改めて被上告人に賃貸する旨の合意書(甲第四号証)が作成されたが、禮子において右合意書の上告人の記名及び捺印をし、また、同年一一月一四日に作成された合意書(甲第八号証)についても、禮子において上告人の記名及び捺印をした。

4  その後、禮子と悦子は、市の法律相談で知った福田盛行弁護士に対し、新築後のビルの中に上告人が取得することになる専有部分の建物(以下「本件建物」という。)についての被上告人との間の賃貸借契約の条項案の作成等を依頼し、同弁護士は、契約条項案(甲第三二号証)を作成した。これに対し、被上告人も、弁護士に依頼して契約書案(甲第七号証)を作成し、禮子と悦子に交付した。そして、昭和五六年二月一七日、被上告人、禮子及び悦子が福田弁護士の事務所に集まり、同弁護士において予め用意していた文書に、被上告人が自己の署名及び捺印をし、禮子が上告人の記名及び捺印をして、本件建物についての賃貸借の予約(以下「本件予約」という。)がされた。本件予約には、(1) 被上告人は、上告人から本件建物を賃借することを予約する、(2) 上告人は、被上告人に本件建物を引き渡すまでに、被上告人との間で賃貸借の本契約を締結する、(3) 上告人の都合で賃貸借の本契約を締結することができないときは、上告人は、被上告人に対し四〇〇〇万円の損害賠償金を支払う、という内容の合意が含まれていた。

5  昭和五六年五月七日に上告人を含む土地の権利関係者と地産トーカンとの間で等価交換契約が締結され、被上告人は、旧建物を明け渡し、昭和五七年八月にビルが完成した。

6  禮子は、被上告人に対し、ビル完成前の昭和五七年四月ころ、島田善成を介して賃貸借の本契約の締結を拒む意思を表明したため、被上告人は、上告人にあてて同年五月一〇日及び二六日に本件建物を賃貸するよう求める旨の書面を送付したが、上告人側は、これに対する回答をしないで、黒沢和男に対し、同年六月一七日付けで本件建物を借入金の担保として譲渡した。そこで、被上告人は、同年七月九日、本件建物についての地産トーカンに対する上告人の引渡請求権の処分禁止の仮処分決定を得、また、同年八月三日、本件予約に定められた違約による損害賠償請求権を被保全権利として本件建物につき仮差押えをした。

7  被上告人は、上告人に対し、昭和五七年八月二七日、本件予約中の右4の(3)の合意に基づき、四〇〇〇万円の損害賠償等を求める訴えを提起し、昭和六一年二月一九日、右の請求を認容する旨の第一審判決が言い渡された。これに対し、上告人から控訴が提起され、控訴審は、上告人による訴状等の送達の受領及び訴訟代理権の授与が意思無能力者の行為であり無効であるとして民訴法三八七条、三八九条一項を適用して、第一審判決を取り消した上、第一審に差し戻した。差戻し後の第一審が被上告人の請求を棄却したので、被上告人が控訴した。

8  この間、禮子は、横浜家庭裁判所に対し、昭和六一年二月二一日、上告人を禁治産者とし、後見人を選任することを求める申立てをしたところ、横浜家庭裁判所は、同年八月二〇日、上告人を禁治産者とし、悦子を後見人に選任する旨の決定をした。

二  原審は、右一の事実関係の下において、次のとおり判断し、被上告人の請求を認容した。(1) 上告人が禮子に対し、本件予約に先立って、自己の財産の管理処分について包括的な代理権を授与する旨の意思表示をしたとは認められないから、禮子が上告人の代理人として本件予約をしたことは無権代理行為である。(2) しかし、禮子が上告人の事実上の後見人として旧建物についての被上告人との間の契約関係を処理してきており、本件予約も禮子が同様の方法でしたものであるところ、本件予約は、その合意内容を履行しさえすれば上告人の利益を害するものではなく、上告人側には本契約の締結を拒む合理的理由がなく、また、後見人に選任された悦子は、本件予約の成立に関与し、その内容を了知していたのであるから、本件予約の相手方である被上告人の保護も十分考慮されなければならず、結局、後見人の悦子において本件予約の追認を拒絶してその効力を争うことは、信義則に反し許されない。

三  原審の認定判断のうち、二の(1)は正当というべきであるが、同(2)は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1  禁治産者の後見人は、原則として、禁治産者の財産上の地位に変動を及ぼす一切の法律行為につき禁治産者を代理する権限を有するものとされており(民法八五九条、八六〇条、八二六条)、後見人就職前に禁治産者の無権代理人によってされた法律行為を追認し、又は追認を拒絶する権限も、その代理権の範囲に含まれる。後見人において無権代理行為の追認を拒絶した場合には、右無権代理行為は禁治産者との間においては無効であることに確定するのであるが、その場合における無権代理行為の相手方の利益を保護するため、相手方は、無権代理人に対し履行又は損害賠償を求めることができ(民法一一七条)、また、追認の拒絶により禁治産者が利益を受け相手方が損失を被るときは禁治産者に対し不当利得の返還を求めることができる(同法七〇三条)ものとされている。そして、後見人は、禁治産者との関係においては、専らその利益のために善良な管理者の注意をもって右の代理権を行使する義務を負うのである(民法八六九条、六四四条)から、後見人は、禁治産者を代理してある法律行為をするか否かを決するに際しては、その時点における禁治産者の置かれた諸般の状況を考慮した上、禁治産者の利益に合致するよう適切な裁量を行使してすることが要請される。ただし、相手方のある法律行為をするに際しては、後見人において取引の安全等相手方の利益にも相応の配慮を払うべきことは当然であって、当該法律行為を代理してすることが取引関係に立つ当事者間の信頼を裏切り、正義の観念に反するような例外的場合には、そのような代理権の行使は許されないこととなる。

したがって、禁治産者の後見人が、その就職前に禁治産者の無権代理人によって締結された契約の追認を拒絶することが信義則に反するか否かは、(1) 右契約の締結に至るまでの無権代理人と相手方との交渉経緯及び無権代理人が右契約の締結前に相手方との間でした法律行為の内容と性質、(2) 右契約を追認することによって禁治産者が被る経済的不利益と追認を拒絶することによって相手方が被る経済的不利益、(3) 右契約の締結から後見人が就職するまでの間に右契約の履行等をめぐってされた交渉経緯、(4) 無権代理人と後見人との人的関係及び後見人がその就職前に右契約の締結に関与した行為の程度、(5) 本人の意思能力について相手方が認識し又は認識し得た事実、など諸般の事情を勘案し、右のような例外的な場合に当たるか否かを判断して、決しなければならないものというべきである。

2  そうすると、長年にわたって上告人の事実上の後見人として行動していたのは禮子であり、その禮子が本件予約をしながら、その後黒沢に対して本件建物を借入金の担保として譲渡したなどの事実の存する本件において、前判示のような諸般の事情、特に、本件予約における四〇〇〇万円の損害賠償額の予定が、黒沢に対する譲渡の対価(記録によれば、実質的対価は二〇〇〇万円であったことがうかがわれる。)等と比較して、被上告人において旧建物の賃借権を放棄する不利益と合理的な均衡が取れたものであるか否かなどについて十分に検討することなく、後見人である悦子において本件予約の追認を拒絶してその効力を争うのは信義則に反し許されないとした原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるものというべきであり、右違法は判決に影響することが明らかである。

四  以上の趣旨をいうものとして論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、右の点について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。

よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官尾崎行信 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫)

上告代理人千葉憲雄、同金綱正巳、同鶴見祐策の上告理由

一 原判決は、判決に影響を及ぼすことが明かな法令解釈の違背及び判例違反がある。

1 原判決は、意思無能力者でありかつ損害賠償債務を負担するべき行為―事実上も法律上も―を何一つしていない上告人甲野靖子に対して損害賠償の責任を認める判決をした。

本件は、債務不履行に基づく損害賠償責任である。この責任の成立要件はいうまでもなくまず賠償義務者に責任能力があり、かつ故意または過失のある義務違反があったことを要する。

本件は、記録上も明らかであり後にも指摘するように、上告人甲野靖子は意思無能力者である。しかも、上告人甲野靖子は本件損害賠償の前提となる契約債務には全く何らの関与もしていない。契約行為も代理委任行為も何も無いのである。上告人甲野靖子は、本件に関する契約書を見たこともなく、従ってまた契約に署名したことも捺印したことも無いのである。法は特別の場合に例外として無過失責任を認める場合があるが、原則はあくまでも自己責任によるものであり、過失責任主義である。

本件の如く法律行為を含め全く何らの関与もしていない上告人甲野靖子に一体如何なる契約債務が生ずるというのであろうか。本件は、そもそも、損害賠償債務の前提となる契約債務が上告人甲野靖子に存在しないのであり、にも拘らず上告人甲野靖子に対して損害賠償の責任を認めた原判決は、民法第四一五条以下の解釈を誤ったものといわねばならない。

2 次に、本件では契約上の損害賠償債務であるから、当然のことながら賠償義務者とされる上告人甲野靖子にその前提として「契約」を締結する能力があることを要する。しかし、法は、意思能力を有する者の行為のみを有効とするのであって、上告人甲野靖子には意思能力が無いのであるから、如何なる法律行為をしたとしても何らの法律効果も生じない。即ち、損害賠償債務の前提たる「契約」は意思無能力者である上告人甲野靖子においては成り立たず無効である。意思無能力者については、仮に法律行為がなされたとしても、それは絶対無効とするのが学説・判例である。例えば、米倉明教授は、意思無能力者の法律行為は「いわゆる絶対無効であって、何ぴとの主張を待たずとも当然に無効であり、いつでも、だれでも無効を主張することができ、またその無効は全面的無効ともいうべきで、問題の行為を別の種類の行為とみて、その種類の行為としては有効とするということも認められない。」(米倉明「行為能力(一)」法学教室一九八二・五)としている。(同旨須永 醇「意思能力と行為能力(一)」法学志林五四巻四号 篠原弘志「行為能力と意思能力とはどのような関係にあるか」民法の基礎知識・有斐閣・昭四〇年他)。そしてまた原判決は、意思無能力者に関する先例である大審院明治三八年五月一一日判決・民録一一輯七〇六頁、最高裁昭和二九年六月一一日判決・民集八巻六号一〇五五頁と相反する判断をなしている。

3 さらに本件は、債務不履行に基づく損害賠償責任であるから、賠償義務者に責任能力があるほか、かつ故意または過失のある義務違反がなければならない。

しかし、上告人甲野靖子はそもそも心神喪失の常況にあり何等の法律行為をしていないのであるから、故意または過失のある義務違反行為がそもそも無いのである。しかるに、上告人甲野靖子に対する損害賠償債務を認めた原判決は、明白な法令解釈を誤ったものといわねばならない。

二 原判決は、判決に影響を及ぼすことが明らかな憲法並びに法令違背がある。

本件の前提である「契約」を締結したのは上告人甲野靖子の実姉である訴外甲野禮子であるが、訴外甲野禮子は後見人ではなく、法上の代理権限もない。上告人甲野靖子は、右実姉に代理を委任したこともなく、仮に委任できたとしても意思無能力者であるからいずれにしても代理も無効である。訴外甲野禮子が上告人のために行為したものであっても、その「契約」は無権代理の責任問題として処理されるべきもので、上告人甲野靖子にその責めを認めるべき筋合いではない(現に、被上告人は訴外甲野禮子らに対し無権代理の責任を求めて別訴を東京地方裁判所に提起し係属中である。東京地裁民事一五部・平成元年(ワ)第一一〇三四号事件)。

本件では、契約を強要して締結させた被上告人とこれに押された訴外甲野禮子とが上告人甲野靖子を全く抜きにして取り運んだ約定であり、上告人甲野靖子には何ら責められるべきものは無い。

しかるに、上告人甲野靖子に対して損害賠償の責任を認めた原判決は、民法第四一五条以下の解釈を誤ったものといわねばならないと同時に、上告人甲野靖子には何らの責めが無いにも拘らず、金四千万円という莫大な損害賠償の責任を負わせた原判決は、上告人の唯一の財産を失わせることになるので、憲法第一三条の個人の尊重・幸福追及に対する権利を侵害することになり、また、責めも無いのに財産を奪うこととなるので憲法第二九条に違背するものといわねばならない。

三 原判決は、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある。

1 原判決は、本件訴訟の途中で後見人に選任された三輪悦子がその以前においても上告人甲野靖子の事実上の後見人と同視できる、として本件「契約」を有効としたが、以下に指摘するように重大な事実誤認がある。

即ち、本件訴訟の途中で上告人甲野靖子が意思無能力者である事実を二審から受任するに至った上告代理人において気付いた。そうとすると、そもそも一審の裁判も上告人甲野靖子の訴訟代理委任が無効となることはもとより、控訴審も適法な審理ができないことになる。そこで、控訴審である東京高等裁判所第五民事部では、控訴審の有効な遂行のために禁治産の手続きを採り後見人を選任の上有効な訴訟代理委任状を追加提出することを求めたのである。

そして、横浜家庭裁判所において精神鑑定の結果、甲野靖子は意思無能力者であると判断され、昭和六一年八月二〇日に禁治産宣告がなされ同時に三輪悦子が後見人に選任された(横浜家庭裁判所昭和六一年(家)第四八五号、同第八一六号)。後見人選任は当初甲野禮子の予定であったが、裁判所は事実上の後見人であった甲野禮子がそれまでの間に多勢に騙されてきた経緯等に鑑み不適任とし、また後見人に選ばれた後の本件「契約」の追認問題なども心配されたので、そのおそれのない三輪悦子を敢えて選任したのである。

つまり、三輪悦子は甲野禮子と異なり、本件の関係ではほとんど関与がなく、甲野禮子の要請で「契約」に立ち会った事実があるだけで、事実上の後見人としての役割は全く行なったことが無いのである。

2 東京高等裁判所第五民事部は、後見人三輪悦子の訴訟代理委任状の追加により控訴審手続きを有効とし、しかし、一審の委任状は無効であるとして同年一二月二一日に原判決を取消し、東京地方裁判所に差し戻す旨の判決をした(昭和六一年(ネ)第五四八号損害賠償請求控訴事件)。

差戻し審は東京地方裁判所民事第三二部合議部に継続した。ここで、一年余にわたって審理が行なわれ、平成元年七月一八日に原告の請求を棄却する、との判決が出された(昭和六三年(ワ)第一五六号損害賠償請求事件)。つまり、甲野靖子は意思無能力者であるから金四千万円の違約損害金約定もそもそも無効である旨明確に判断したのである。

以上のとおり横浜家庭裁判所において、敢えて甲野禮子を外し、事実上の後見人としての役割は全く行なっていないと判断され追認など上告人甲野靖子に不利にならない後見人として三輪悦子が選任された経緯、また本件訴訟の手続き上でも必要であるから同人が後見人に選任された経緯を無視して、三輪悦子がその以前においても上告人甲野靖子の事実上の後見人と同視できる、とした原判決は重大な事実誤認をしたものである。

3 なお、付言すれば、上告人甲野靖子に関しては、本件訴訟継続中は禁治産宣告を受けず、従って後見人の選任もないまま、精神専門医師の意思無能力の診断書のみを提出したままであったならば、訴却下の判決となったものである。仮にまた、禁治産宣告を受け後見人の選任がされても、身内ではなく全くの第三者であったならば、請求棄却の判決となったであろう。

しかるに、訴訟の手続き上の遂行のため、並びに名実共に後見人の役割を果たしてもらうために身内を選任した結果、「上告人甲野靖子の事実上の後見人と同視できる」との理由を無理にコジ付けて上告人の責任を認めた原判決は、常識をも逸しているものと言わざるを得ない。

四 原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈の誤り並びに経験則違反がある。

本件は、単なる無能力者の事案ではない。意思無能力者の事案なのである。原判決は、「無能力者制度が無能力者の利益保護のための制度であることは、原判決のいうとおりである。しかし、ここにいう利益保護とは、全体としての利益保護をいうのであって、無能力者に一切の不利益を負わせないということではない。」とする。

原判決は、その前の差戻し審の「原判決」の判断内容を正確に理解していないばかりでなく、無能力者の利益保護についても明らかに理解を欠いているといわざるを得ない。

法は、「無能力者に一切の不利益を負わせない」のではない。わが民法は第三条から第六条にかけては未成年者について、第七条から第一〇条にかけては禁治産者について、第一一条から第一三条にかけては準禁治産者について規定し、取引の安全・相手方の保護等については、無能力者の相手方からする催告(第一九条)、無能力者の詐術(第二〇条)等の規定を置き調和をはかっているのである。

しかし、ここにいう無能力者(行為無能力者)と意思無能力者とは別の概念であり、既に指摘してあるように意思無能力者の行為は絶対無効とされているのである。原判決は、この点においても混同があり、重大な判断の誤りを犯している。

さらに付加するならば、本件のような場合は、実際に行為をした者について無権代理の問題が生じ、法は、第一一三条以下にそのことを予定し規定しているのであるから、無権代理の問題として処理すべきであり、それで足りるのである。

原判決の判断は、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈の誤り並びに経験則違反があるものといわねばならない。

五 以上の上告理由を補足するため事実経緯の要点を述べる。

1 上告人甲野靖子は、昭和八年四月二五日東京都内で父国一、母まちの三女として出生したが、生まれつきの聾唖者であるうえ、身心の発育も遅く、五才ころまで歩くことができず、身体も虚弱で、一〇才のころ漸く都立の聾唖学校初等部に通学するようになったものの、戦争が激しくなったことから間もなく通学しなくなり、以後、格別の教育を受けていない。

右のような生来の資質上の負因に加え、成長期に適切な教育を受けなかったことから、現在、聾唖兼精神発達遅滞と診断されており(なお、両耳の聴力損失により身体障害者二級の認定を受けている)平仮名以外の字は読めず、抽象的な言葉は全く理解できず、手話もできないため、第三者とはもちろん家族との普通の日常会話を交すことも困難である。従って、万一、迷子になった場合などに備えて特訓した自分の住所氏名を漢字で書くことができるのみで、知能はせいぜい六才程度でしかない。つまり、自分の行為の結果を判断し得る精神能力、正常な認識力、判断力もない状態である。換言すれば、意思能力がなく、法律行為をなし得る能力は無い。

2 亡父国一氏は、上告人甲野靖子の行く末を案じて本件建物の前身である旧土地建物を同女のために残してくれた。これが等価交換により本件建物となったものであるが、これらの契約は全て同居の姉甲野禮子が行なった。その際、旧建物の貸借人との間で再入居の契約書を取り交わしたが、その条件が余りにも貸借人側に有利であり、甲野側には不利であったことから、姉甲野禮子に知恵をつける者が現われ、本件建物を第三者に売却して再入居契約を破棄するに至った。これらに関与したのは、偽弁護士と金貸し並びに被上告人が差し向けた事件屋であり、結局、偽弁護士には大金を持ち逃げされ、事件屋にも店舗契約保証金を使い込まれるなどの被害に遭い、被上告人からは再入居契約に約定された金四千万円の違約損害金の請求をされることになった。それが本件裁判である。

3 そもそも、本件におけるような心身喪失の常況にある意思無能力者のした法律行為については、全面的無効あるいは絶対無効であると理解されている。そして、本件におけるような心神喪失の常況にある意思無能力者については、常に保護されるべきものとされている。意思無能力者の制度は(無能力者の制度ではない)正にかかる弱者を保護するためのものである。かかる観点から、昭和六二年一二月二一日に東京高等裁判所第五民事部は四千万円の支払いを命じた一審判決を取り消して東京地方裁判所に差し戻しをした(昭和六一年(ネ)第五四八号損害賠償請求控訴事件)。そして、差戻しを受けた東京地方裁判所民事第三二部も意思無能力者保護の趣旨を踏まえ、昭和五六年二月一七日に締結された四千万円の違約罰金を含む賃貸借予約契約を無効として原告である片柳良一の請求をしりぞけた。

4 本件損害賠償の前提である予約契約成立は、偶々、横浜市旭区役所の法律相談で福田弁護士に法律相談した姉禮子がその後も相談をしたことによるが、弁護士経験のごく浅い福田弁護士は、姉禮子の了承もなくして新賃料額を予約契約書に記載しかつ損害金四、〇〇〇万円を被上告人との打合せにより決めてしまっていたのである。

福田弁護士は、もともと上告人から代理受任した事実はなく、その内容においても、被上告人の側に一方的に有利であって実質はむしろ被上告人代理人に等しいものといわざるを得ない。殊に、損害金四、〇〇〇万円という金額は、地価の異常上昇した三年前においてもあまりにも高額に過ぎ、いかなる根拠、計算のもとに算出されたのか理解に苦しむのである。ちなみに、三年前の高騰時における本件不動産の売買取引価格は、3.3平方メートル当り三四二万円であり、借家権を約二〇パーセントとみると3.3平方メートル当り六八万四千円である。本件不動産は一階が37.66平方メートル、二階が34.74平方メートル合計72.40平方メートルであるから、借家権価格は金一千五百万円位でしかないのである(売買取引価格は今日で1.2階で約七千万円程度)。当時としては、建物の所有権売買取引の価格をも超えると思われるほどの異常な高額であった。

本件の不動産は、社会生活をしていくことの出来ない障害者である上告人にとって生きて行くための唯一の資産である。本件のようなケースでその唯一の資産の保全を図り意思無能力者である上告人に不利益を負わせないことこそが、法の要請並びに健全な社会常識にも添うものであろう。

原判決は、速やかに取消されなくてはならない。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例